溝畑宏とは
子供時代〜学生時代(1960年〜1985年まで)
 溝畑は京都大学理学部教授で数学者の父と母、姉、弟の五人家族の長男として愛情豊かで暖かく、なおかつ厳しさもある家庭環境で育ちました。

 子供の頃から、父は子供部屋の真ん中に地球儀を置いていました。「世のため人のためにチャレンジ精神をもって貢献し、また世界を目指せ」というメッセージだったそうです。また、「人間は能力の前には頭を下げないけれど、努力の前には頭を下げる。とにかく言い訳・弱音を吐かず努力しなさい。」と父がよく言っていた言葉を溝畑は今もかみしめています。
 父の職務の都合で、6歳からフランス、イタリアで少年時代を過ごした溝畑は、ヨーロッパ滞在で各地域に満ち溢れる郷土愛、グローバルな感覚、そしてそこに暮らす人たちの精神的な豊かさ、明るさに大きな影響を受けました。この時の経験が「将来、世界の舞台で働こう。」という思いを大きく育みました。
ヨーロッパから帰国して高校三年までは京都で育ちました。京都は歴史・伝統・文化のある街で、地域愛・郷土愛の強い街でもありました。中学・高校はカトリック系の学校(洛星)に通い、野球部で自由闊達に過ごしました。

 大学は「天下・国家を語りたい」という思いから、東京大学法学部に進学し、多くの志ある良き仲間たちと出会いました。また、大学時代の様々なアルバイトの経験はその後の人生のベースとなる生活力を養いました。
大学卒業時は、「世のため、人のためになる仕事をしたい。」「世界の舞台で仕事をしたい。」という思いから、商社やテレビ局を選び、内定をもらっていたが、友人の誘いで受験した国家公務員試験に合格し、官庁訪問に行った際に出会った尊敬する先輩(古川康氏:現佐賀県知事)の「地方から日本を元気にし、地方の活性化に貢献する」という言葉に感銘を受け、自治省(現総務省)に入省を決めました。
エピソード

自治省時代〜大分県庁時代(1985年〜2004年まで)
【北海道庁へ(〜1987年)】
 自治省入省後は北海道庁に出向し、素晴らしい同僚や市町村の職員の方々の協力を得て、道内全市町村(当時212市町村)を訪問し、北海道の広大な大地・美しい自然・豊かな食文化に触れ、日本の各地域が持つポテンシャルの高さに感動を受けました。
 1987年自治省に復帰後、消防行政・地方財政等を担当し、特に消費税導入時には、これに伴う地方財政における消費税転嫁の制度設計などを行いました。

上段:中津江村カメルーンチーム合宿誘致(2002.6月)下段:●●●●(2002.6月) 【大分県庁へ(1990年〜)】
 溝畑は1990年4月に大分県庁に出向し、当時の大分県平松知事の「一村一品運動」の活動理念に共鳴し、「大分から世界に通用する人づくり、モノづくり」を行う事で地方分権の推進、地域振興に貢献しようと考え始めます。

 ちょうどその頃(1990年6月)に当時イタリアのベローナにいた父に誘われW杯サッカーを観戦し、人口40万人強の大分市と人口の変わらない都市がW杯を開催し、地方から世界にチャレンジしている都市政策に感動を覚えました。
 この経験から当時Jリーグも誕生していない日本の、しかもサッカーに関心の薄い大分で「2002年W杯サッカー」招致に動き出します。
 その後、2002年W杯サッカー日韓共催、大分開催、大分ビッグアイ(現:大分銀行ドーム)の建設、また人口1,700人の中津江村へのカメルーンキャンプの誘致など、「大分から世界へ」という熱い思いを持って全力で動き回りました。W杯は日韓交流の推進、地域の活性化など大きな成果があり、大分での試合は全て43,000人のスタジアムが満員となり、大いに盛り上がりました。

 また、大学の街京都で過ごした経験と留学生受け入れの必要性から「大分にアジア及び世界に開かれた国際的な大学の建設」を1991年に提案し、まず関東を中心に約70大学に誘致活動を展開。「ネバーギブアップ」の精神で1994年に父の縁があった学校法人立命館と出会い、1997年に協定締結、2000年4月に大分県、別府市、経済界が一体となり、本格的な国際大学である「立命館アジア太平洋大学(APU)」の設立に尽力しました。設立にあたっては、平岩外四経団連会長、アサヒビール樋口会長、大分県平松知事、別府市の井上市長、安部助役、学校法人立命館の川本専務、大 南総長、坂本副学長、長田副学長、甲賀常務など多くの産学官の皆様の努力、また文部科学省の佐藤次官、御手洗局長のご指導、さらに多くの海外の政府、大学 の皆様の協力など新しい、大きな夢に向かい、関係者が一つになった国家的なプロジェクトに関われたことはとても貴重な体験になりました。
 APUは現在約120の国・地域、約2,500人の留学生を有するアジアで屈指の国際大学に成長しています。

【自治省に復帰(1999年〜2000年)】
 1999年には自治省に1年復帰し、約3000の市町村を約1000に減らすことを目指した「平成の市町村合併」を推進すべく、市町村合併特例 法、市町村合併補助金の制度の創設に尽力し、再び2000年4月に大分県庁に出向します。

【大分トリニータJ1昇格へ(2002年11月)】
 溝畑は2002年W杯誘致を一過性に終わらせないためにも、地域振興の起爆剤として、1994年にゼロからスタートした企業・住民・行政が一体となった「ローカルから日本一」「世界を目指すサッカークラブチーム」『大分トリニティ』(1999年より大分トリニータ)の設立にも関わりました。
 資金、選手、ブランドも無いスタートで、最初の試合の観客はわずか3名でした。困難のスタートでしたが、早朝から夜中まで県内外の企業への営業、駅前でのビラ配り、夜は懇親会のハシゴとフル回転し、多くの方々の支援・協力に支えられ、1996年にはJFL、1999年にはJ2に昇格しました。
 1999年〜2001年の3年間は最終戦までチャンスがあったものの3年連続勝ち点1差でJ1への昇格を逃しました。
 そして2001年9月に母、2002年6月には父を喪う等の数々の苦難を乗り越え2002年11月には待望のJ1昇格を達成しました。
エピソード エピソード

大分トリニータ時代(2005年〜2009年まで)
【J1昇格〜ナビスコカップ優勝(2003年〜2009年)】
 大分トリニータは2003年にJ1に昇格しましたが、この年は、J1では一番経営規模の小さい地方のクラブとして、残留争いを戦い、何とか残留を決めました。この頃から観客動員は2万人を超えるようになります。

 2004年、メインスポンサーが撤退するという厳しい経営状況の中、溝畑はGMから社長に就任しました。そして、2005年には退路を断つ決意で公務員を退職し、大分トリニータの社長に専念します。「選手や監督は一年一年が勝負。それなのに自分だけが逃げ道があると、みんな本気でついてきてくれないと思ったんです。私は人生の選択を迫られた時、タフな環境を選んできました。職業はしがみつくためのものではなく、自分を磨くための舞台だから。常にチャレンジしろという両親の教えも後押しになりました。」(溝畑談)

 2008年にはチーム創立14年目で待望のJリーグ・ナビスコカップ優勝で初タイトルを獲得し、その年のリーグ戦も4位(最終節まで優勝争い)と好成績を収めました。また観客動員数も1試合平均2.5万人を突破し、日本代表選手(金崎・清武・森重・高松・西川・東)を輩出するなど、この年は苦難の厳しい歴史の中、大分県の行政・企業・住民そして県外企業の多くの方々の支援・協力が実を結んだ年となりました。

 しかし、2009年にはリーグ戦中のけが人の続出、リーグ期間中の移籍金の撤廃、リーマンショックの影響等により、J2に降格してしまい、経営不振の責任も取って社長を辞任する事になりました。2002年W杯、大分トリニータ時代大変お世話になったのが、韓国サッカー界の皆様でした。日韓共催でお互いに協力しあった鄭夢準氏(当時会長)など韓国サッカー協会の皆様、そして大分トリニータのチーム創設から関り、10年間大分に滞在し溝畑にとって父のような存在であった朴景浩氏、また1990年イタリアW杯のスペイン戦で伝説のゴールを決め、1995年から選手・監督・フロントとして溝畑を支えた皇甫官など多くの韓国サッカー関係者の皆様が大分のスポーツ文化の発展に貢献していただいた。溝畑は通算約90回韓国を訪問して、サッカーをはじめ多くの分野に素晴らしい仲間に恵まれた。
トリニティ時代、トリニータ時代、ボランティアの皆様、多くのサポーターの皆様、スポンサーの皆様には支えていただき、応援、声援をいただいた事は今でも「励み」になっています。

 2014年ブラジルW杯サッカーでは、大分トリニータ社長時代に若手として育成した西川選手、森重選手、清武選手が代表に選ばれるなど、チーム設立時の理念であった「大分から世界に通用する人材を育てる」という夢が実現することになりました。

 溝畑にとって大分は第二の故郷でした。県庁・大分トリニータ時代を含め、通算19年滞在し、その間大分県民の方々のおかげで多くのプロジェクトを実践する機会に恵まれました。大分における多くの人との出会いや義理人情に接する事ができた事は溝畑にとっては大切な宝物であり、自分を成長させていただいた事に対し、感謝の気持ちで一杯である。
エピソード エピソード

観光庁長官時代(2010年〜2012年まで)
【日本の魅力を世界にアピール】
 2010年1月、政府より「観光立国の推進をしてもらいたい」というミッションを受け、観光庁長官に就任しました。日本には四季折々の豊かな自然、美しい景観、多様な文化・地域性、治安の良さなど、多種多様な世界市場でも高く評価される観光資源があると溝畑は考えました。そこで、日本の各地域の魅力をブランド化し、国内外からヒト・モノ・カネを集める事で地域を活性化させる観光施策を推進しました。
 地域振興・地域経済の活性化を促す「観光立国」推進に国を挙げて、オールジャパンで取り組むべく、自らを日本政府の観光営業広報マンとしてトップセールスで「心」を伝え、東奔西走の日々を送りました。

 日本のクオリティーの高いスポーツ、文化、産業、食文化、医療、ファッション、アニメ、コスプレなどの観光資源を関係省庁、民間などとコーディネート。特にスポーツと医療については、庁内に推進室を設置し体制強化を図り、民間企業や大学・自治体を中心とした協議会を設立し、産学官上げての取組として醸成させていきました。スポーツ観光は現在、一般社団法人日本スポーツツーリズム推進機構という組織が設立され、民間の自主的な取組として成果を残しています。また、観光立国を目指す上で、日本の魅力を世界にアピールする「観光立国ナビゲーターとして人気グループ「嵐」を起用しました。これにより国が観光行政に取り組んでいることの国内的な認知度を高め、アジアを中心とした海外プロモーションにも大きく寄与しました。積極的な海外プロモーションや受け入れ環境整備、中国人の訪日観光ビザの要件緩和等の施策効果もあり、2010年は訪日外国人旅行者数を大きく躍進させる結果となりました。

【震災復興に向けて世界にアピール〜東北観光博(2011年3月〜)】
 しかし、観光立国の実現に向けて順調に歩みを進めていた中で、2011年3月11日の東日本大震災により状況は一変してしまいます。津波による甚大な被害、福島第一原子力発電所事故などにより国内観光の自粛ムード、風評被害による訪日外国人旅行者の激減など、多くの乗り越えなければならない課題が数多く与えられてしまいました。
 溝畑は先ず国内観光に対して「自粛の自粛」を呼び掛け、積極的な観光をアピール。訪日外国旅行者に対しては、①正確な情報発信 ②ソーシャルネットワークの活用 ③日本にいる留学生・訪日旅行者のメッセージ活用 ④海外メディア・旅行会社の招聘 ⑤海外での説明会の開催 ⑥海外著名人を活用した訪日メッセージ などを積極的に展開しました。

 特に⑥については、レディー・ガガ、ジャスティン・ビーバー、イル・ディーヴォなど訪日した著名人からのメッセージを活用しました。
ニューヨークの新聞に「日本を元気にするために日本に旅行しよう」というメッセージを出してくれたガガには来日時に感謝状を贈りました。ガガの日本は安全だというアピール、Twitterのフォローワー数トップのジャスティン・ビーバーによる日本の安心安全情報の発信(映像等が世界に発信され、海外からの問い合わせが殺到)など世界中に強い発信力を持つ方々の協力を得ました。

 震災復興に向けては自らも被災地に出かけ(在任中に東北に36回(うち福島に19回))、現地の観光関係者の生の声を吸い上げ、現場主義による施策を推進しました。東北全体を博覧会会場に見立てた観光PR施策である「東北観光博」を実施し、ポジティブに周囲を引っ張りリーダーシップを発揮しました。また、「新報道2001」(フジテレビ)に生出演し、メディアを通じて東北復興の現状と復興促進の必要性をアピールしました。中でも、風評被害に喘ぐ会津若松の窮状を涙ながらに訴えた姿は国民に大きな反響を呼び、東北の復興に大きな影響を与えました。
エピソード

【オールジャパンで日本を元気に!!(2012年〜)】
 2012年3月、長官退任後は政府、地方自治体、大学、民間の役職を持ちながら、国の成長戦略の推進、地域の活性化、観光立国、クールジャパン、2020年東京オリンピック招致、スポーツ振興などに全力投球の日々を送っています。
 2012年5月からは東北復興を推進し震災復興に力を尽くしてくれた現場の方々に感謝の気持ちを伝えるために、自転車による「みちのくひろし旅〜出会いを求めて東北1600キロ」を実施しました。その模様はUstreamで生配信され、12月にいわき市にゴール。多くの人々との交流、おにぎりマンに変身、吹雪の中での激走は多くのメディアにより報道されました。
 2013年7月には内閣府の「地域経済に関する有識者懇談会」の委員会に就任してアベノミクスの地域経済活性化のための政策を提案。
 また 2011年7月以降評議委員として関わった2020東京オリンピック・パラリンピックの招致が2013年9月に決定。
 2013年10月には伊豆半島の観光 振興、地域活性化PRのため伊豆半島一周約300kmを自転車で旅する「伊豆ひろし旅」を完走。
 また観光庁長官在任中から観光立国、MICE、文化振興に寄与する成長戦略の起爆剤として積極的に取り組んできた「IR(特定複合観光施設区域整備)法案」が2013年12月の臨時国会に提案され、2014年6月にはついに国会で審議入り。今後も国民の皆様の理解、協力を深めながら法案成立に向けてIR議連、経済界、地方公共団体などの関係者の皆様と一体となって全力で取り組んでいきたい。
 2015年3月、クールジャパンで日本の忍者文化を世界に発信するための日本忍者協議会準備会を発足しました。日本の忍者文化を一元化、忍者の定義を確立、プラットホームの構築等、10月の日本忍者協議会設立に向けて協力体制の皆様と一緒に全力で取り組んでいきたい。
 2015年4月、関西経済連合会、関西経済同友会、大阪商工会議所、大阪府、大阪市の要請を受け、ふるさとである関西への恩返しとともに、関西・大阪の活性化のため大阪観光局理事長(観光局長)に就任。
 2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据え、東京圏一極集中に対抗すべく、関西の活性化は重要な課題である。
関西は世界遺産が多数あり、世界に誇れる歴史、文化、景観・街並みを持っている。中でも関西のハブである大阪の活性化は重要な課題である。
 日本再生、地域活性化はライフワーク。
 これからも関西の活性化、東北復興、忍者などクールジャパンの推進、IRの推進、2020東京オリンピック・パラリンピックを見据えたスポーツ振興など、日本の各地域が、自信、元気、誇り、自立自助の精神に満ち溢れた、「日本再生」のため、現場主義、スピード感、行動力、巻き込む力で関係者の皆様と一体となって頑張っていきたいと思う。
エピソード

【 フェイス・トウ・フェイスのコミュニケーションは情熱を伝える手段であり日本社会のDNAである。オールジャパンで日本を元気にする。】
今後も「夢」「義理人情」「温故知新」両親から受け継いだ教えを胸に抱き、地域の活性化、クールジャパン、観光立国、スポーツ振興など、日本の成長戦略の推進、そして、日本を元気に、地域を元気にできるよう大局的な見地に立ち、現場主義と情熱を持って頑張っていきたいと思います。(溝畑 宏)